【宴雑感】
2月に日本酒を楽しむ3つの会に参加し、美酒と美味しい料理をいただき、楽しい時を過ごすことが出来た。16日日本酒の会sake nagoyaの定例会、18日ざっぶんの会、25日安兵衛の会である。
3つの会はそれぞれ主催者、参加者、会場が異なり、会の性格も異なる面があるが、楽しく参加できるという点では、共通している。そこで、筆者の目に映るそれぞれの会の特徴と共通している楽しさ、それは宴ということなのだが、の背景にあるものを想ってみた。
《3つの会の特徴》
それぞれ特徴がある会ですが、どれに参加しても、楽しむことが出来る内容であることは保証できます。ただ、蛇足ながら、日本酒の勉強をこれからしたいと希望される初心者の方は、日本酒の会に1年程度参加して、修行(?)をしてから、後の二つに参加された方が気後れせずに済むかも知れません。
《宴》
3つの会に共通すること、それは宴であること。宴会と宴は似て非なる物。
宴会は何か目的を持った会合。表彰式、決起大会、出版記念会etc。宴は、集うことが目的。主催する人とそこに集う人が、美酒と料理を楽しみ、楽しい会話に一時を過ごす場である。時間と歓びの共有意識が目的であって、他の目的があるわけではない。ただ美酒と料理を楽しむのであれば、家庭で独酌すれば足りるものであり、矢張り同好の士が集うことが宴には必要なのである。そこでの参加者の心の有り様が宴の雰囲気を作ることになる。
宴に何故人は集うのか。参加者の心の底にあるものとして二つ考えられる。
その1.<東洋的心情>
中国には、酒を愛し、酒と共に人生の別離、邂逅、喪失感、無常感を詠う詩人達が大勢おり、日本人は古来それらの詩を愛唱してきており、今や日本的心情になっているとも言える。酒の詩は枚挙に暇はないが、于武陵の有名な詩に「勧酒」がある。
勧 酒 酒を勧む 于武陵
勧君金屈巵 君に勧む 金屈巵
満酌不須辞 満酌辞するを須(もち)ひず
花発多風雨 花発(ひら)いて風雨多し
人生足別離 人生 別離足る井伏鱒二の名訳
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
(「厄除け詩集」)
間もなく、花と共に別れと旅立ちの季節を迎える。そんな時、宴を催し、盃を酌み交わしたいものである。
その2.<日本人の日常意識>
古来、日本人の日常意識、空間意識には、ハレ(晴)とケ(褻)の区別があったと言われる。「晴」=非日常と「褻」=日常で 毎日が成りたっていると思う意識である。
昨日と今日の区別も付かないような単調な毎日、明日もまた同じような日が続くであろう。毎日はそのように起伏無く、事件もなく、心躍ることもなく、淡々と、坦々と過ぎていくものであるという日常意識、これが「褻」である。
そのような日常性の日々の中、輝いた、待ちこがれた、心の躍動する日がやってくることがある。それは、村祭り、正月、結婚、出産など特別な、非日常の日である。
その日には、普段着る着物を脱ぎ捨て、きらびやかな美しい着物、晴れ着に着替えるのである。
延々と続く褻の日々の中、晴れの日の希望を持つことは、日本人の精神生活の知恵であろう。
褻の日と晴れの日の関係を取り違える人がいる。バーチャルリアリティをリアリティと取り違える人がいるように。これは、大変危険なことである。毎日が晴れの日であって欲しいと思うことは理解できるとしても、毎日を晴れの日にしようと行動することは、肉体的、経済的に自滅への道を辿ることになる。
毎日は、褻の日々なのである。
心は淋しい狩人達は、次の晴れの日の灯火の明かりを、心の先に見ながら、昨日と変わりのない今日をそしてまたそうであろう明日を、褻の日と受け止めて、極端に落ち込むこともなく、諦めることもなく、坦々と力強く生きていくのである。
宴は晴れの日である。宴に晴れ着は似合うのである。
(報告 Y)