酒の中島屋さんの「季節の美味しさと日本酒を楽しむ集い」は、今回で199回だそうです。すごいですね。筆者は8月に続き2回目の参加です。
年4回「ざっぶん」を会場として開かれる企画は、日曜日なので参加できます。
午後1時から始まり、終わりは、お酒が無くなるまで、通常6時頃でしょうか。
約5時間の宴会だが、退屈することはない。気が付くと、終わりに近づいているという不思議な会である。
岐阜といえば信長である。折から岐阜市歴史博物館で特別展「道三から信長へ」が開催されているので、早めに出たつもりだったが、列車の接続が悪く、時間が窮屈になり、空も雨模様になりつつあるので、方針を変え、岐阜駅のクラフトショップで、酒器など眺めて時間調整することになってしまった。
信長が生駒吉乃と青雲の時期を過ごした江南の地には勲碧酒造がある。上級酒は勿論のこと、「手作り本醸造」も良い酒である。安土城趾から遠くないところに、銘酒「松の司」の松瀬酒造がある。信長の足跡を辿って銘酒を味わい、往事を夢想するのも一興である。天下布武の地、岐阜にも銘酒は多い。
「ざっぶん」に着き、受付をすませ、取り置きしていただいた銘酒の代金を精算すると、もう、あまり広くない会場は人で一杯である。今回はわが日本酒の会のメンバーが3人参加している。T氏、A氏、Mさん、いずれも日本酒に対する情熱・蘊蓄・経験...は素晴らしい人たちである。
奥を見渡すと中頃の6席のテーブルに3人並んでいるのが見えた、その前の席が1つ空いている。狭い処に割り込ませていただく。右は、遠路2時間以上を掛けて参加されている常連さん、左は酒造ではないが醸造業である「たまり・味噌」の山川醸造さんの社長さんである。
すでに、山川社長の「玉子かけサミット」なるイベントが四国(?)で開催され、参加してきたという面白い・新しい世界の話が始まっていた。耳を傾けている内に、会は、程なく、少し遅れて始まったのである。
【お酒】の次第
まず、<乾杯> 1銘柄
次に、<お燗がおいしい純米酒&大吟醸> 4銘柄
次に、<今日の贅沢・大吟醸・飲み比べ> 4銘柄
次に、<熟・醇を飲む> 2銘柄
と進みますが、その間に、参加していただいている蔵から提供いただいている銘酒が飲ませていただける。これが、9銘柄もある。
タフでなけれな参加する資格がない事が分かりますね。
ゆっくりやりましょう。
<お燗がおいしい純米酒&大吟醸>
<今日の贅沢・大吟醸・飲み比べ>
<熟・醇を飲む>
<蔵・参加者の持参酒>
【お料理】の次第
(酔っぱらっていたので、書き落としがありそうだ。)
一通りお酒も料理もいただき、お帰りになる方も出てくる。T氏も先刻お帰りになった。小生も自宅まで1時間半以上かかる。明日は月曜日である。そろそろ腰を上げることにしよう。A氏、Mさんに別れを告げ、中島屋店主にお礼・挨拶を申し上げ外に出ると、冬である、6時を廻ったところであるが、しっかり夜である。
岐阜駅への道、雨は激しく降っており、アーケードの切れ目では雨がコンクリートに当たり水しぶきを上げている。
列車が郊外に出ると、光はなく列車の窓の外は漆黒の闇である。目に入るものは窓を打ち流れ落ちる雨、耳に入るものは窓を叩く雨の音と列車の揺れる音だけである。冬の雨の夜、8月とは違い遊び帰りの乗客も少なく静かである。
日本酒が熟成するとはどんな事なのだろう。
今日は14年熟成の純米大吟醸初亀をいただいた、前回は2004BYの芳水大吟醸をいただいた。いずれも低温熟成されたものだが、印象は異なる。
長期熟成酒研究会では、熟成酒を大きく2つに分類している。
初亀も芳水も①タイプに分類されるが、芳水は淡熟とは言えない印象である。
香りも高く、味も濃い。「夢山水十割 奥」は、熟成段階を4分割して販売されている。12月から3月までは生まれたての「生」、 4月から8月までは少年時代の「若」、 9月から3月までは青年時代の「旬」、1年後の4月からは、熟年時代の「熟」として熟成を意識した銘柄になっている。「熟」は「若」より香り高く、味も濃いのである。一方、初亀は淡熟という名にふさわしい風格である。
濃熟型タイプも一つではないことは明らかだ。多くの古酒は、奈良漬けのような香りと味醂のような味わいを持ったものになる。20年物の古酒でもそうである。しかし、達磨正宗はそうではない。奈良漬け・味醂にはならないのである。
最初の10年で、香りは紹興酒になり、味は甘くキレの良い味醂風になる。長期熟成酒研究会は、これを「解脱」と称しているらしい。
20年経つと香りも高貴な紹興酒に例えるしか無い物になり、味は甘いが形容が難しい飛揚感を持った風格になる。
低温熟成のものは、4年前後であれば、香り高く、味も濃くなり、活力を感じる。原酒・無濾過・生酒の条件下では、酵母が活動し続け、香りも味も造り続けるのであろう。吟醸香は酵母の、辛い生育環境下での「悲し屁」だそうであるから。
いじめは、生物を創造的にさせる面がある。環境が辛ければ辛いほど、それを乗り越え、克服しようとする。生き物であるから。
昆虫のバッタには孤独相と群生相があるとのことだ。群生相のバッタは、一飛び数千キロを跳ぶことが出来る能力を持つスーパーバッタである。
「バッタの幼虫は、低い密度で生息すると孤独相(こどくそう)という、単独生活を送るふつうの成虫になるが、幼虫が高い密度で生息すると群生相(ぐんせいそう)という飛翔能力と集団性が高い成虫に変化するという特徴がある。群生相の成虫は、孤独相の成虫にくらべて後脚が短く、翅が長いスマートな体型となり、体色も黒くなる。このように、生物の個体群の密度によって、その生物の体型が変化することを、相変異(そうへんい)とよぶ。」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
過酷な生育環境下(低温で、人口密度が高い密閉状態)に置かれた酵母達は、ある時群生相に変化するのかもしれない。そして、スーパー酵母に変身した酵母達は香り・味を飛躍させ、封印を解かれる日まで瓶の中を暴れ回るのである。
そうだ! 信長は、日本の歴史上、唯一の群生相の人間なのかもしれない。そうとでも考えなければ、あの人間は理解することが出来ない。
父信秀の亡き後、兄弟といえども謀をもって殺害しなければならなかった過酷な状況を乗り越えなければ生きられなかった環境は、彼を群生相の人間に変身させたのであろう。
中世的な秩序を暴力的に・破滅的に破壊する一方、それまで誰も考えることのなかった新しい世界を創り出す。比叡山延暦寺を全山焼き尽くし、僧侶を焼き殺し、伊勢長島攻めでは数万の一向宗徒を殺戮している。合戦の戦国の世とはいえ人間の想像力を超えた人間である。一方、戦の明け暮れの中、新しい世界を創造している。楽市楽座は抵抗勢力を打ち破る革新であり、信長は、改革の中心人物、新日本の旗手なのである...。
この会は酒のマラソン宴会であるが、食もまたマラソンである。
春雨たっぷりの水炊きを食べ終わり、そこへうどんを入れ食べ終わる。もうお腹一杯である。ところが、その後、玉子かけご飯である。しかし、これがまた美味かった。
ご飯が炊きたて釜揚げで、米の粒が立っている、そこへ新鮮なたまごに「たまごかけごはんのたれ」を入れ、混ぜたものをかける。海苔もいらない、何もいらない、香ばしいたまりの香りと玉子のうまさである。思わず、お代わりしてしまった。
とりとめのない夢想に身を委ねているうちに、列車は終着駅に近づいたらしい。
家の灯・街のネオンが、雨に濡れた窓ガラスの向こうに滲んで見える。見慣れた街も雨に濡れた窓でデフォルメされ、見知らぬ新しい街のような景色になっている。
今日もまた、かくて有り、満ち足りた一日であった。
(報告:Y)